2019年4月23日火曜日

経営者とマネジメント


 以前、異なる学問分野の先生に、「経営学は金儲けの学問」といわれたことがある。全く違うし、経営学研究の目的を「利益の最大化」と捉えるような間違った考え方をしてはならない。経営学は社会科学の一分野であり、社会科学の中でも組織についての研究が中心に据えられていて、それは営利企業組織だけではなく、NPOなど、あらゆる組織の運営に関わる学問である。人が集まれば、組織ができる。その組織をどのように運営するのか、どのようにすれば、上手に組織を維持し、組織の目的を達成することができるのか、科学的に解明することが経営学の役割である。
組織はその目的を達成することで社会に貢献することができる。組織は経済の発展だけではなく、私たちが生活していくために必要なあらゆる事柄について関わっている。だから組織の目的が私利私欲のための金儲けなど、反社会的なものであることは許されない。組織は正しいこと、つまり社会の発展に寄与することを目的としなければならない。組織の目的が達成された結果として、社会の進歩や発展が実現するのであるから、目的が正しくない組織は社会にとって存在しない方が好ましい。このように組織が社会のために目的を立てて実行し、その目的を達成するためのあらゆる手段のことをマネジメントという。
 
経営学については、他にも誤解されていることがたくさんある。例えば、製造業に関して「日本人は手先が器用だから良い製品ができる」などである。しかし、現在の日本製品は日本人の手によってつくられているわけではなく、多くの場、海外で製造されている。しかも国内海外を問わず、日本企業の工場では工作機械や産業用ロボットを大量に利用しているので、人間の手によって生み出される製品はごくわずかである。近年、情報産業の発展に伴い、かつて常識だった日本の経済や経営についての過去の事柄が語り継がれている場合があるので、経営学をこれから学ぼうとする学生諸君は、このような陳腐化された言動に惑わされることなく、自分の頭で考え、自分の目で確認してほしい。
 
私たちは近年、時代の転換期ともいうべき大きな変化の中で生活していて、この変化はおそらく明治維新に匹敵するような大きな変化になる可能性がある。明治維新は封建社会を解体して、資本主義社会を生み出し社会と私たちの進むべき方向を示した。現在の社会変化も同様に資本主義社会を解体してポスト資本主義社会へと進んでいくのかもしれない。いずれにしてもグローバル化、AI化、働き方改革などは従来の私たちの社会に対する概念を破壊し、新しい社会の秩序を構築しようとしているように思える。具体的に現在社会にどのような変化が起こっているのだろうか。グローバル化は経済を一国の枠組みから多国間の結びつきによって成り立つような社会になった。そのため経済や経営の理論も一国主義時代の理論は意味をなさなくなってしまった。日本の自動車会社とか、国産の自動車という概念や表現も意味をなさなくなる。グローバル化は新しい時代のリーダーを生み出しつつある。同様にAI化による変化も、私たちには耐えられないほどの大きな変化を生み出しそうである。人間の能力がAI(人工知能)にかなわないことが確実視されるようになって、急激にAIに対する認識が高まってきた。グローバル化によって社会は大転換する、と騒がれる中、さらにAIによって私たちの社会は、大きく変貌せざるを得ないと誰もが考えるようになった。私たちは日本社会をここまで豊かにした資本主義のシステムを根底から崩壊させてしまう可能性も含め、これから起こる変化の方向を見極めなければならない。AIに対して過剰な反応を示す人たちはAIが人間と対立し、私たちを滅ぼすと悲観的なコメントを送り、一方でAIなどは進化したコンピュータととらえ、大いに利用していこうと訴えるものもいる。確実なことは、私たちはAIを利用することを選択し、後戻りができないということである。AIは経営学と最も深い関連性を持つ学問分野の一つである。現在のところ、ロボットの利用や車の自動運転など、安全で豊かな社会を想定する論調が多いけれど、組織がAIを利用して企業活動を行った結果、AIによって何がどのように変わるのか、あるいは変わらないのか、私たちの未来を見据えて、しっかりと検討していかなければならない。AIによる仕事の自動化は、私たちから仕事を奪うのか、それとも新しい仕事を創造し、あるいは仕事から解放されて、より人間らしい生き方ができるようになるのか。それはAIをどのように利用しようとしているのか、利用する側の選択にかかっているわけで、利用の仕方によって私たちの強い味方になるかもしれないし、あるいは人類を滅ぼす敵になるのかもしれない。だから、組織の目的は正しくなければならないのである。


2019年4月19日金曜日

近世新町の商業活動

平成31419

 
郷土史と産業史

世界の歴史→日本の歴史→関東の歴史→上州の歴史→新町の歴史→我家の歴史→私の歴史 

 

 現代の私たちの生活から歴史を考える

 その接点や繋がりを見つけることが重要

 単なる「物知り」では意味がない


古墳時代


群馬県は古墳が850以上もあり、日本国内で、早くから人間が住みついた所だった。

この地域は、近くの丘陵から燃料や、堆肥の材料をたやすく手に入れることができ、奥深い山があり、建築資材、食料、水量の多い河川は稲作も容易であった。

関東地方の多くの地域は湿地が多く、人が住めるような環境ではなかった。

政治・交通・経済の要所
神流川の合戦

 天正十年(1582)六月十九日、神流川原を舞台に繰り広げられ、日本史上に残る大合戦(神流川合戦)があった。

織田信長配下の関東管領滝川一益と、小田原北条氏との戦い。

両軍合せて四万余りが神流川の両岸一帯で激突し三千人以上が戦で亡くなった。

神流川の合戦

神流川古戦場跡碑

上里町の金窪城

胴塚,首塚が離れた場所にある   
 
2 交通のかなめ

姫街道


3 経済のかなめ
特権商人は自由にどこへでも行ける。

 近江商人・松坂商人・伊勢商人・甲州商人など彼らは、領主から特権を与えられ、日本中を自由に歩き回り、商業活動を行ってきた。
 (行き)
  関西→関東へ(呉服・古着・蚊帳・茶道具など)
 (帰り)
 関東→関西へ(砂金・絹・紅花など特産品)

 近江商人
近江商人の基本は行商。そこから「近江千両天秤」という諺も生まれた。

関西→地方へ運ばれた商品は高級品(下り物)

それ以外の商品→下らない物

近江商人と藤岡
日野絹(ひのぎぬ)とは

藤岡の絹か?・・・・・・蒲生郡日野の絹か?


日の絹は群馬県藤岡の絹であった。

  
なぜ、群馬の、この地域に養蚕業が発展したのか。

近江商人は中山道を利用した

彼らは中山道沿線の宿場町に定住し、酒造技術を生かして酒造業や、質屋を営んだ。
彼らは関西からやってくる商人たちの中継基地として便宜を図り、集団で商売を行っていた。
この地域は江戸にも近く、彼らの得意とした絹製品の集積所として、この地域を重要視していた。

近江商人

市田清兵衛(いちだせいべえ)
  
麻屋(あさや)・3代目16371714〉
八幡商人。市田家はもと六角氏に仕えた武士で神崎郡石川村(旧五個荘町)の出身。承応元年(1653)頃に八幡町に移り、3代目清兵衛は上州(群馬県)に繰綿・太物類を持ち下り商いし、当地の産物を登荷し富を得ました。晩年、家訓を定め新規事業を慎重にし、才能ある者は中途採用でも重役にすることを示しています。

  現在も活躍する近江商人の企業


・商社   伊藤忠商事、丸紅、トーメン
・百貨店 
 高島屋、大丸、西武
・紡績  
 日清紡、東洋紡
・その他 
 日本生命、ヤンマーディーゼル、      

          西武グループ、ワコール



「見立番付」にみる上州と高崎の地位

安政3年(1856)の「関東自慢繁昌競」という都市番付によれば、東の大関に城下町の高崎をはじめ、前頭の上位に伊勢崎・藤岡・新町・安中など、交通要衝の地が名を連ねています。このように江戸時代の番付は、当時の社会や庶民の世界を映し出した一つの情報伝達手段でもあり、大変興味深い歴史資料の一つであると思われます。

官営新町紡績所の経営

紡績所の設立の理由

明治政府の殖産興業政策
日本の絹糸産業の中心地
富岡紡績所から出る大量のくず絹糸
渋沢栄一の存在
新町は東京・横浜への交通の要所
動力源としての温井川
輸送手段の高崎線・八高線
 
新町紡績所                                            

  国内で初めて日本人技術者の手で建設された洋式工場。敷地内には木造工場やレンガ倉庫、旧ボイラー施設など、当時の面影のまま残っている。

明治時代に建設された工場建物が現存しているものは全国的にも数少なく、貴重な産業遺産です。

期待された新町紡績所
明治10年の開所式には政府の主要閣僚が集まった
内務卿  大久保利通
大蔵卿  大隈重信
工部卿  伊藤博文
内務少輔 前島密
勧農局長 松方正義
 
絹糸と綿糸
絹・・製糸(繭から糸をとる)
綿・・紡績(糸をつぐむ)

屑(くず)糸から絹糸を作った

新町で絹糸紡績が始まり富岡製糸所で捨てられていた屑糸が再生されて立派
な絹糸になり輸出され
重要な日本の輸出品

 当時の日本の輸出品は絹製品、生糸、お茶
 大量消費地への輸送は当初、舟運だった
 温井川と上武大学
 輸送手段としての河川と鉄道

 舟運時代

利根川⇒江戸川⇒小名木川⇒神田川(東京)


鉄道の発展

高崎線 明治17年に新町駅開業

両毛線 明治22年に全線開業

八高線 昭和9年に全線開業

横浜線 明治41年に全線開業

   
動力源としての温井川

水車と蒸気機関の利用・・・ドイツ・スイスの技術を導入

               水車利用は日本では失敗だった

窓にガラスを採用・・・冬と夏では営業時間が違う

               採光の役割

官業の払い下げ

明治10年官営工場としてはじまった「内務省勧業寮新町屑糸紡績所」は、明治20年に 三井財閥に払い下げられ、明治44年三井系列の鐘淵紡績株式会社の所有となり、現在は(株)カネボウ・フーズ新町工場/(株)カネボウ・アグリテック新町事業所となっています。

投下資本130,000 円  払い下げ価格150,000 円 
富岡製糸場の払い下げ
明治5年に設立され、明治26年に三井財閥に払下げられた。その後、昭和14年に三井グループの片倉工業所有となった。
投下資本310,000円   払い下げ資本121,460

 
民間企業としての経営

蒸気機関の利用・・・安定した動力

電気(照明)の利用・・・昼夜二交代制の導入

労働力の確保・・・寄宿舎、福利厚生施設の拡充