2019年4月19日金曜日

近世新町の商業活動

平成31419

 
郷土史と産業史

世界の歴史→日本の歴史→関東の歴史→上州の歴史→新町の歴史→我家の歴史→私の歴史 

 

 現代の私たちの生活から歴史を考える

 その接点や繋がりを見つけることが重要

 単なる「物知り」では意味がない


古墳時代


群馬県は古墳が850以上もあり、日本国内で、早くから人間が住みついた所だった。

この地域は、近くの丘陵から燃料や、堆肥の材料をたやすく手に入れることができ、奥深い山があり、建築資材、食料、水量の多い河川は稲作も容易であった。

関東地方の多くの地域は湿地が多く、人が住めるような環境ではなかった。

政治・交通・経済の要所
神流川の合戦

 天正十年(1582)六月十九日、神流川原を舞台に繰り広げられ、日本史上に残る大合戦(神流川合戦)があった。

織田信長配下の関東管領滝川一益と、小田原北条氏との戦い。

両軍合せて四万余りが神流川の両岸一帯で激突し三千人以上が戦で亡くなった。

神流川の合戦

神流川古戦場跡碑

上里町の金窪城

胴塚,首塚が離れた場所にある   
 
2 交通のかなめ

姫街道


3 経済のかなめ
特権商人は自由にどこへでも行ける。

 近江商人・松坂商人・伊勢商人・甲州商人など彼らは、領主から特権を与えられ、日本中を自由に歩き回り、商業活動を行ってきた。
 (行き)
  関西→関東へ(呉服・古着・蚊帳・茶道具など)
 (帰り)
 関東→関西へ(砂金・絹・紅花など特産品)

 近江商人
近江商人の基本は行商。そこから「近江千両天秤」という諺も生まれた。

関西→地方へ運ばれた商品は高級品(下り物)

それ以外の商品→下らない物

近江商人と藤岡
日野絹(ひのぎぬ)とは

藤岡の絹か?・・・・・・蒲生郡日野の絹か?


日の絹は群馬県藤岡の絹であった。

  
なぜ、群馬の、この地域に養蚕業が発展したのか。

近江商人は中山道を利用した

彼らは中山道沿線の宿場町に定住し、酒造技術を生かして酒造業や、質屋を営んだ。
彼らは関西からやってくる商人たちの中継基地として便宜を図り、集団で商売を行っていた。
この地域は江戸にも近く、彼らの得意とした絹製品の集積所として、この地域を重要視していた。

近江商人

市田清兵衛(いちだせいべえ)
  
麻屋(あさや)・3代目16371714〉
八幡商人。市田家はもと六角氏に仕えた武士で神崎郡石川村(旧五個荘町)の出身。承応元年(1653)頃に八幡町に移り、3代目清兵衛は上州(群馬県)に繰綿・太物類を持ち下り商いし、当地の産物を登荷し富を得ました。晩年、家訓を定め新規事業を慎重にし、才能ある者は中途採用でも重役にすることを示しています。

  現在も活躍する近江商人の企業


・商社   伊藤忠商事、丸紅、トーメン
・百貨店 
 高島屋、大丸、西武
・紡績  
 日清紡、東洋紡
・その他 
 日本生命、ヤンマーディーゼル、      

          西武グループ、ワコール



「見立番付」にみる上州と高崎の地位

安政3年(1856)の「関東自慢繁昌競」という都市番付によれば、東の大関に城下町の高崎をはじめ、前頭の上位に伊勢崎・藤岡・新町・安中など、交通要衝の地が名を連ねています。このように江戸時代の番付は、当時の社会や庶民の世界を映し出した一つの情報伝達手段でもあり、大変興味深い歴史資料の一つであると思われます。

官営新町紡績所の経営

紡績所の設立の理由

明治政府の殖産興業政策
日本の絹糸産業の中心地
富岡紡績所から出る大量のくず絹糸
渋沢栄一の存在
新町は東京・横浜への交通の要所
動力源としての温井川
輸送手段の高崎線・八高線
 
新町紡績所                                            

  国内で初めて日本人技術者の手で建設された洋式工場。敷地内には木造工場やレンガ倉庫、旧ボイラー施設など、当時の面影のまま残っている。

明治時代に建設された工場建物が現存しているものは全国的にも数少なく、貴重な産業遺産です。

期待された新町紡績所
明治10年の開所式には政府の主要閣僚が集まった
内務卿  大久保利通
大蔵卿  大隈重信
工部卿  伊藤博文
内務少輔 前島密
勧農局長 松方正義
 
絹糸と綿糸
絹・・製糸(繭から糸をとる)
綿・・紡績(糸をつぐむ)

屑(くず)糸から絹糸を作った

新町で絹糸紡績が始まり富岡製糸所で捨てられていた屑糸が再生されて立派
な絹糸になり輸出され
重要な日本の輸出品

 当時の日本の輸出品は絹製品、生糸、お茶
 大量消費地への輸送は当初、舟運だった
 温井川と上武大学
 輸送手段としての河川と鉄道

 舟運時代

利根川⇒江戸川⇒小名木川⇒神田川(東京)


鉄道の発展

高崎線 明治17年に新町駅開業

両毛線 明治22年に全線開業

八高線 昭和9年に全線開業

横浜線 明治41年に全線開業

   
動力源としての温井川

水車と蒸気機関の利用・・・ドイツ・スイスの技術を導入

               水車利用は日本では失敗だった

窓にガラスを採用・・・冬と夏では営業時間が違う

               採光の役割

官業の払い下げ

明治10年官営工場としてはじまった「内務省勧業寮新町屑糸紡績所」は、明治20年に 三井財閥に払い下げられ、明治44年三井系列の鐘淵紡績株式会社の所有となり、現在は(株)カネボウ・フーズ新町工場/(株)カネボウ・アグリテック新町事業所となっています。

投下資本130,000 円  払い下げ価格150,000 円 
富岡製糸場の払い下げ
明治5年に設立され、明治26年に三井財閥に払下げられた。その後、昭和14年に三井グループの片倉工業所有となった。
投下資本310,000円   払い下げ資本121,460

 
民間企業としての経営

蒸気機関の利用・・・安定した動力

電気(照明)の利用・・・昼夜二交代制の導入

労働力の確保・・・寄宿舎、福利厚生施設の拡充 


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