2020年1月21日火曜日

経営管理の課題(来るべき時代の変化に備えて)

  日本の経営管理については従来から多方面で議論され、問題の所在はだれでもよく分かっているように思われている。しかしながら、海外の経営管理と比較して、異なる日本的な部分の評価については相変わらず意見が分かれている。最初から日本的な特質を遅れた封建的な経営管理と否定する研究者と、それを日本的な特質として受け入れ、長い時間かけて構築された日本的な経営管理は海外では受け入れられなくても、日本人の生活に密着した管理方法と評価する研究者も多く存在する。海外で研究して戻ってきた若い研究者に見られる、欧米崇拝的な経営管理理論は、そのまま日本に当てはめてもうまくいくわけがないし、日本の経営管理をレベルの低いものとする考え方は、いかがなものなのか。この国が日本的経営で世界一流の近代国家を構築したことを忘れるべきではないし、欧米型のグローバル経営で日本も世界も矛盾が拡大し、不幸になる人たちが続出している現状を見ようともしていない。やはり新しい時代に合った日本的経営の構築を目指すべきである。

近年話題になっている「働き方改革」についても同様の評価があるものの、残業が後ろめたいものと認識し始められていることは、それなりに効果なのかも知れない。しかし、働き方改革が残業の問題に集約されてしまい、もっと大事な労働の本質を議論しなければならなかったのに、この部分は葬り去られてしまったのは、何か意図的なものを感じる。つまり、議論させたくなかったのか問題の所在そのものを覆い隠してしまったようである。

経済の二重構造は解消するどころか、ますます拡大し、大企業の労働者は比較的短い労働時間(1800時間)で賃金は高く、福利厚生施設は充実し、働く環境も良好であるのに対し、中小企業労働者は長時間労働で、少ない賃金を補うために残業を余儀なくされているにも関わらず、残業カットによる賃金の減少は議論ざれなかった。さらに正規雇用と非正規雇用の問題も非正規雇用者を2000万人も増やし、彼らに残された正規雇用への道をふさいでいるのは何のためなのか議論されなければならなかった。残業の問題などは、労働者の自由に任されるべき問題で、他人が口を挟むことではない。ただサービス残業や、残業の強要が行われていたことが問題なので、残業そのものについては労働者の自由裁量の範囲である。 

このブログを始めた当初から、「大きな変化の時代が来る」と言い続けてきたが、いよいよ、その変化が誰の目にも見えるようになってきた。変化はすでに起こっていた。経営管理に関するすべてが大きく変わる。働き方が大きく変わる時が来た。企業に頼る時代は終わった。企業に雇用され、指示・命令で働くのではなく、一人一人が自分で仕事を選び、そのために必要なスキルを身に付け、プロフェッショナルとして企業を利用して働くのである。プロがプロの仕事をするために企業が必要なのであって、企業が主役ではなく、働く人々が主役になる時代である。ある一面、厳しい時代なのかもしれない。企業に頼って働く方が楽かもしれない。しかし時代はすでに変わってしまったし、戻れない。この変化を見ようとしなければ、人も企業も置いて行かれる。就職とか定年などという言葉も過去のものとなるであろうし、あたりまえだけれども自分のことは自分で決めるべきであり、当たり前なことなのに、現在の経営管理は自分のことを他人が決めていることにお気が付いていない。このような時代の変化を捻じ曲げようとするものはいつの時代にも存在するが、この変化は明治維新にも匹敵するような変化である。明治維新期にも時代の流れを止めようとして争った人たちが多く存在した。しかし、結局大きな時代の変化には勝てなかった。変化に付随して起こる諸問題は、その都度解決していけばよいので、大きな流れの方向を見失わないように心がけることが必要である。

 
最後に私の授業を受講してくれた諸君の将来が、明るく開けていくことを願っています。
ありがとう!

2020年1月20日月曜日

カルロス・ゴーンの経営

なぜカルロス・ゴーンが日産自動車のトップになったのか。

2000年日産自動車は6000億円以上の負債を抱え、経営破綻寸前だった。トヨタに対する対抗意識が高く、儲からなくてもとよたと同じような経営を行ってきた。しかし、無借金会社のトヨタは日産のライバルではなく、トヨタ独自のトヨタローンを組んで顧客に車を売れば、利子だけでもトヨタは利益を出すことができるので、場合によっては原価で売っても利益は出る会社である。日産は儲からなくても車を売り続けた、いわば経営者の責任は重い。

 結局、日産自動車はフランスのルノー社から資金の援助を受けて再建することになった。ルノー社はミシュラン(タイヤ会社)の再建を成功させたゴーン氏を受け入れ、わずか1か年で経営を再建した。しかしそのやり方は、工場ごと廃止し、そこで働いていた労働者14万人のうち21千人を一度に解雇してしまった。強引で、超法規的なやり方は批判されたが、日産の再建を成功されたことでゴーン氏の名声は高まり、カリスマ経営者の名声を手に入れた。通常、社員を解雇するためには、出来るだけ解雇せずに済む方法やいくつかの問題をクリアしなければならない。だからそれまでの日本人経営者は大量解雇できずにいた。ゴーン氏は法的手続きを飛ばしてしまい、だれもそれを非難しなかった。つまりゴーン氏の経営は最初から法を無視した超法規的経営だった。彼にコンプライアンス(法を順守する)を求めるのは無理だったということである。それなのに日本人は、彼を褒めたたえカリスマ経営者と祭り上げてしまった。今更彼に法を守るように説得しても意味がないし、彼は、法を無視した、やりたい放題の経営を行ってきた。伝えられるように、彼は年間10億円の給与を得てきただけではなく、その数倍の資金を日産から得てきたことのようである。10億でも日本の経営者の中では最高金額である。彼は、アメリカのグローバル企業は、日産より小さな会社でも、もっとたくさんの給与を得ていることを知っていた。

 グローバル企業の経営は、あまりにも多くの問題があり、そのやり方は明らかに誤っている。ドラッカーは経営者の給与は一般的な社員の7~8倍程度が望ましいと語ってきた。その後も、グローバル経営者があまりにも多くの給与を得るようになってからも、20倍以内にしろと述べている。ゴーン氏の給与は200倍どころではなく1000倍近い給与を得てきたことになる。明らかに間違えているが、これがグローバル経営の実態である。

 

コーポレートガバナンス

 コーポレートガバナンス(企業統治)とは経営者が、どのように組織を管理するのかという問題である。当然、コンプライアンスは当然のことであるが、それより重要なのはゴーン氏の経営によって、日本のグローバル企業の多くが、ゴーン流経営を肯定してしまった結果、誤った方向に向かってしまったということである。経団連の経営者たちは、口をそろえて、いつでも労働者を解雇できるシステムを造れと言って、政府はそのような法改正を行ってきた。経営者の給料は上がる一方なのに、そこで働く労働者の給料は低いままである。小泉内閣以降、現在に至るまでグローバル化を過信して労働者を無視し、それまでの終身雇用制度を廃止し、再雇用制度も整備もせずに、労働者を不安定な地位に貶めてしまった。

 この授業でしばしば、話してきたことだが、「企業経営の目的は社会貢献である」利益は社会貢献するために必要な条件であり、それが目的ではない。ゴーン流の経営は、この面でも誤っているが、私たちも働くことが人生の目的ではないことを再認識するべきである。働くために生まれてきたのではない。社会生活を送るためにお金が必要なので、そのためのお金を得るために働くのである。家庭や家族を守ること、地域社会で楽しく暮らすこと、友人や仲間と楽しい時間を持つこと、そして何より自分がやりたいことを実現するために働いていることを忘れてはならない。

 日本社会は、海外の誤った潮流に乗せられ、自分たちの進むべき方向を見失ってきた。従業員を大切にしてきた日本の経営管理は間違えていなかったことを誇るべきで、本当に正しい方向へ自信を持って舵を切り直し、世界にそれを示すべきである。

2020年1月6日月曜日

新しい経営管理論を求めて

 社会を理解するためには一本筋の通った理念あるいは哲学が必要で、それが欠如していると場合当たり的な理解しかできず付和雷同し、強い者や全体の流れに流されてしまう。複雑な世界の、様々な考え方が縦横無尽に飛び交う現在、個別には理解できても全体の整合性を持った体系的な理解はしにくい。すべての事象を集めても全体を説明することは出来ない。たくさんの知識を身につけて、それを自身の教養としても、到底個人の行動を左右する根本の考え方になるわけではない。 

 むしろそのような個人の行動様式を決定するのは、子供の頃過ごした地域の習慣や伝統に左右される場合が多い。つまり子供の頃過ごした地域の文化や宗教が、成人してからも影響を及ぼすということである。それでは日本の文化や宗教が個人の行動様式を決定するほどの理念や哲学を持ち合わせているかといえば、残念ながら決してそのような大層な考え方が存在するとは言えない。多神教国家では「何でもあり」という考え方に陥りやすく、人々を支配するためには何か別の形で強制的に縛り付けるシステムを用意しなければならない。それが地域の風習や伝統で、それは理屈抜きの強制で、整合性など無視した矛盾だらけの行動を強制されるのである。哲学や理念など関係なく、繰り広げられる日常の出来事は次第に個人の考え方など必要としないで、所属する集団の行動様式に理屈抜きで従うようになる。現在でも、戦前の軍事ファシズムに対して、それがファシズムだといわれても理解できずにいるのは、それが当然のこととして受け入れてきたからである。そこには個人の思想や哲学など存在しなかった。 

 戦後日本人が目指した目標は豊かさであり、経済発展による国土の再建と個人の資産を増やすことだった。それによって日本人は一つになり、戦前武力によって成し遂げようとしたことを経済力によって実現したといわれるように、目標に向かって突進し経済大国の地位を手に入れた。問題は、日本人の意識が戦前と比べてそれほど変わっていないことである。相変わらず理念や哲学の不在と、自ら考えることをしていない。経済が発展し、豊かさを実感しているときは会社でどのような管理をしても我慢もできた。しかし、時代は変わりつつある。 

 経営管理の在り方が、今のままで良いわけではない。今までの社会は経済が中心に置かれた社会で、それで日本人は団結することができた。百年に一度とか大きな時代の変わり目と言われる現在、新たな理念や哲学がもとめられる。元来、理念や哲学不在の社会だったのだから、新たにではなく初めて日本の哲学を構築するときが来たというべきであろう。 

 新しい社会の哲学は、人間を中心に置かなければならない。主役は人間であり、人間を大切にし、人間本位の考え方でなければならない。そのように考えると、今までの経営管理は根本から考え直し、新たな経営管理が必要であり、すでにそのように変化している。以前のように大金持ちが尊敬されなくなった。かつて松下幸之助は「経営の神様」と言われ、尊敬の対象であったが、現在の大金持ちは人々から胡散臭い目で見られるようになった。日本人の求めるものは、自由で平等そして自分がやりたいことができる本当の味での「豊かな社会」である。 

 働かないことが悪であるというのは経済中心時代の考え方であり、働くか働かないかは自分で決めるもので、他人から強制されるものではない。さらに働く者は、指示・命令されて働くべきではない。もちろん、働く者は成果を上げなければならない。今までのように働いているふりは許されないし、結果を求められる。そのための新しい経営管理論を必要としている。