2020年1月6日月曜日

新しい経営管理論を求めて

 社会を理解するためには一本筋の通った理念あるいは哲学が必要で、それが欠如していると場合当たり的な理解しかできず付和雷同し、強い者や全体の流れに流されてしまう。複雑な世界の、様々な考え方が縦横無尽に飛び交う現在、個別には理解できても全体の整合性を持った体系的な理解はしにくい。すべての事象を集めても全体を説明することは出来ない。たくさんの知識を身につけて、それを自身の教養としても、到底個人の行動を左右する根本の考え方になるわけではない。 

 むしろそのような個人の行動様式を決定するのは、子供の頃過ごした地域の習慣や伝統に左右される場合が多い。つまり子供の頃過ごした地域の文化や宗教が、成人してからも影響を及ぼすということである。それでは日本の文化や宗教が個人の行動様式を決定するほどの理念や哲学を持ち合わせているかといえば、残念ながら決してそのような大層な考え方が存在するとは言えない。多神教国家では「何でもあり」という考え方に陥りやすく、人々を支配するためには何か別の形で強制的に縛り付けるシステムを用意しなければならない。それが地域の風習や伝統で、それは理屈抜きの強制で、整合性など無視した矛盾だらけの行動を強制されるのである。哲学や理念など関係なく、繰り広げられる日常の出来事は次第に個人の考え方など必要としないで、所属する集団の行動様式に理屈抜きで従うようになる。現在でも、戦前の軍事ファシズムに対して、それがファシズムだといわれても理解できずにいるのは、それが当然のこととして受け入れてきたからである。そこには個人の思想や哲学など存在しなかった。 

 戦後日本人が目指した目標は豊かさであり、経済発展による国土の再建と個人の資産を増やすことだった。それによって日本人は一つになり、戦前武力によって成し遂げようとしたことを経済力によって実現したといわれるように、目標に向かって突進し経済大国の地位を手に入れた。問題は、日本人の意識が戦前と比べてそれほど変わっていないことである。相変わらず理念や哲学の不在と、自ら考えることをしていない。経済が発展し、豊かさを実感しているときは会社でどのような管理をしても我慢もできた。しかし、時代は変わりつつある。 

 経営管理の在り方が、今のままで良いわけではない。今までの社会は経済が中心に置かれた社会で、それで日本人は団結することができた。百年に一度とか大きな時代の変わり目と言われる現在、新たな理念や哲学がもとめられる。元来、理念や哲学不在の社会だったのだから、新たにではなく初めて日本の哲学を構築するときが来たというべきであろう。 

 新しい社会の哲学は、人間を中心に置かなければならない。主役は人間であり、人間を大切にし、人間本位の考え方でなければならない。そのように考えると、今までの経営管理は根本から考え直し、新たな経営管理が必要であり、すでにそのように変化している。以前のように大金持ちが尊敬されなくなった。かつて松下幸之助は「経営の神様」と言われ、尊敬の対象であったが、現在の大金持ちは人々から胡散臭い目で見られるようになった。日本人の求めるものは、自由で平等そして自分がやりたいことができる本当の味での「豊かな社会」である。 

 働かないことが悪であるというのは経済中心時代の考え方であり、働くか働かないかは自分で決めるもので、他人から強制されるものではない。さらに働く者は、指示・命令されて働くべきではない。もちろん、働く者は成果を上げなければならない。今までのように働いているふりは許されないし、結果を求められる。そのための新しい経営管理論を必要としている。 

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