2019年6月22日土曜日

財閥解体


 
 第二次大戦後に行われたGHQによる日本社会改革の主要なものは、財閥解体、農地改革、労働の民主化である。財閥は明治初期、政商資本として有力政治家との密接なつながりを持つことで事業活動を維持することが可能であった。そのため、常に政治や戦争とかかわり合い、政府の保護のもと日露戦争前後に財閥組織を完成させ、近代日本の産業資本形成と経済発展に大きな役割を果たした。財閥組織の本社は個人会社で持ち株会社の形態を有し、配下に株式会社形態の銀行、商社、鉱山、その他製造業などが連なっていた。財閥は本社の支配力が強く、グループ全体の利益を本社に集中するようになっていた。したがって、その成立当初より声なき貧しい民の味方ではなく、経営者は巨大な富を独占していたこともあり、当主や番頭は過激な右翼から命を狙われ、安田善次郎、團琢磨などが命を落とした。

 第二次大戦においては軍と財閥が協力体制を構築して戦争を継続し、特に2.26事件後は軍が政治を支配するようになった。こうした背景から、GHQは財閥を戦争に関わる重大な当事者として糾弾し、財閥本社が所有していた株式を接収し、その解体を命令した。当初、抵抗していた財閥側もGHQの執拗な命令に諦観し、安田財閥の作成した解体案に沿って作業を進めることになった。野田岩次郎をはじめとする「持株会社整理委員会」が組織され、巨大な財閥組織の全容を明らかにし、解体がはじめられた。特にGHQによって徹底的に破壊されたのが三井物産と三菱商事で、それぞれ200社に分割され、これら企業の社員は2名以上が集まって新会社を設立することまで禁じられた。

一次指定の財閥 194696

三井、三菱、住友、安田、富士産業(中島飛行機)

二次指定(40社)1946127

大倉、浅野、古河、野村、渋沢 野村、日産、日曹、理研、日本製鐵、日窒、昭和電工、沖電気など傘下の子会社も含め40社が指定された。

第三次指定20社 19461228

三井鉱山、三井化学など指定されていなかった財閥傘下の企業20社。

4次指定 1947315

国際電信電話会社、日本電信電話会社

5次指定 1947926

林兼、日石、武田薬品、味の素、精工舎など地方財閥、小規模財閥16社。
 
このように当時の代表的な日本企業が財閥と見なされて解体されたが、194910月に中華人民共和国が設立されるに至り、日本は共産主義国家の防波堤としての役割を担わされ、戦争犯罪人の解放、公職追放者の復権と共に財閥の復活も許してしまい、財閥解体は中途半端な改革のまま終わってしまった。それでも財閥本社が解体され、持株会社を禁止したことはそれまでの個人所有の財閥は消滅し、替わりに銀行を頂点とする近代的企業グループとして再生していった。

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